Why Nostr? What is Njump?
2024-09-26 00:12:31

櫻木弓弦(21):booth: on Nostr: 「公共性」があっても「公共」が存在しない ...

「公共性」があっても「公共」が存在しない
「個性」があっても「個人」が認められない
「自由意志」からは巧妙に「自由」が奪われている

そういう印象だった。
「公共性」があるはずの空間に椅子はないし、(宮下)公園でさえ、「ここは〇〇でご購入のお客様専用です」のはりがみがあちこちにある。椅子がなくても少しは滞留できそうな場所には尽く高周波発生装置がついていて人払いがされている。
「個性的な装い」をしているように見える人たちも、それは所属やスタイルを表す表徴のように見えて、やはり資本主義経済をまわす歯車の一部として機能させられているように見える。
あちこちの広告は一挙手一投足をどのようにするかを具体的に示してくる。「『がんばりたくない夜』にはビールを飲め」「個性的である為にこの服を買え」「損をしないために節税本を買え」。自由意志に任せるように見せかけて、実は具体的な行動を指図している広告が非常に目についた。
電車の車掌の「電車から降りたあとは線から下がれ、お客様の迷惑になる」と繰り返す様は聴くに耐えなかった。ホームの狭いところがあったり、動線の整備が不十分なのは誰の責任なのかということを差し置いて、「他人の迷惑になる」ことを連呼する。ホームが狭くて動線が悪い迷惑を被っている人は「お客様」ではないのか?その一言に含まれる他方の誰かへの非礼など頭の片隅にすらないようなものの良いは、あの車掌の人格というよりは、今日の東京の精神性を象徴しているように思えた。

「みんなのもの」は誰のものなのか。少なくとも眼の前のお前ではない誰か他の皆、というように思われて、嘆かわしく悲しく思えた。

汝らを貶め、隷わせ、生殺与奪の権を握り、何を為し何を考え何う考えるかを指図し、教練し、食うものを決め、畜生のように扱い鉄砲玉にする、機械の心、機械の思考をもった不自然な者は、人間ではなく資本主義のシステムそのものがそうなのであろう。

人々よ、汝らは機械ではなく、畜生でもなく、人間なのだ。
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